2012年8月15日水曜日

投稿について

数年前、テレビブロス誌に掲載された原稿が出てきました。
懐かしいので載せます。




部屋にあるカセットテープのラベルを見ていると、ラジオで自分のネタが読まれたところだけを編集して集めたものがあった。一番古いものは『ラジオはアメリカン』、通称ラジアメと呼ばれていた番組だった。確か小学生の頃だったと記憶している。それが最初の投稿だった。

投稿を続けるにはある種の犠牲が伴うものだ。
 投稿者は必ず締め切り日を設定する。ハガキやメールでネタを送る締め切り日だ。信じられないかもしれないが、この締め切りは自主的な締め切りである。
雑誌の場合は、送ったハガキが掲載されるまでの期間から入稿のサイクルを予想して締め切り日を割り出す。ラジオ番組の場合は、「火曜日に到着しただろうネタが読まれ、水曜に到着しただろうネタが読まれなかったこと」や「水曜に到着しただろうネタが次週の放送で採用された」等の経験から火曜がリミットだと分析、余裕を持たせて月曜を締め切り日とする。
 何度も言うが、これはオリジナルの締め切り日である。投稿者が勝手に設定した締め切り日だ。しかもだ。驚かないで欲しいのだが、それはなんと「必要のない締め切り」なのである。投稿者によってその締め切り日が守られようが破られようが、雑誌は発売されるし、ラジオ番組は何事もなく放送されるのだから。
 それでも投稿者はこのオリジナルの締め切り日を破ることなく、それどころか締め切りを中心とした生活を送ることとなる。例えば「火曜の放送を聴いた後、木曜までに思いついたネタをメモしてストックし、金曜にそれらをコーナーと照らし合わせて分類、不足分があれば再度ネタを考える。土曜にはネタをコーナーのフォーマットに沿った形へと作り変える。ネタの個数を数え、ノルマに到達していないコーナーはネタを増やす。そして日曜に清書、月曜日にハガキを投函、メールの場合は送信する」と投稿ありきの一週間となる。投稿する番組が増えれば、さらに投稿関連の作業は増え、いつしか投稿一色の生活となる。
この暮らしを続けるには、学校であったり友達づきあいであったり家の手伝いであったりと、何かを犠牲にしなければ成り立たなくなるのだ。
ちなみに先程の土曜日のところに出てきた「ノルマ」というのも誰かに強制されたものではない。何度も言うが、投稿者自身による自主的なものである。
 私は締め切りギリギリになると速達で出していた。自分の中で間に合わないことは許されないことだった。別の友人はニッポン放送の番組なら有楽町にあるポストに投函する、というように配達時に経由される箇所を減らしていた。郵便事故の確率を減らす役割もあると言っていた。せっかく出したハガキが郵便事故で到着しないのは辛い。そのために彼は電車に2時間以上揺られてポストまで移動していた。
こんなこともあった。ハガキを出す側から送られてきたハガキを選ぶ側になった私の入り待ちをしていた青年が、ネタが書かれたハガキを手渡してきたことがあった。彼は「出すのが間に合わなくて届けにきました」と言った。「遅くなってすみません!」と謝罪もした。
 お気づきかもしれないが、本来謝罪すべきことではない。彼は何も悪いことをしていないのだし、ハガキが遅れたところで誰も困らない。それでも彼は謝罪した。この謝罪からもオリジナル締め切りの存在を感じるだろうし、投稿者の何かを犠牲にしている生き様がわかるのではないか。
なぜそこまでするのかと疑問を持つ人もいるだろうが、J-POPの歌詞的なありふれた表現で説明したならば「そこにしか居場所がないから」といえよう。「ネタが作れる」という特殊で一般的に認められ辛い能力を発揮できるのは投稿という場でしかないのだ。採用されることによって認められた喜びを知るのだ。逆にその状態を維持するには投稿し続けるしかない。
こうしてなんとか締め切りを守ってもその回の放送が録音であったり、たまたまスタジオの外を通りかかったゲストが乱入してネタコーナーが潰れたりする場合がある。聴取率週間で通常コーナーがすべて潰れることもある。雑誌の場合、合併号や休刊もある。ここで投稿者は一生懸命やっても報われないことがあることを知る。投稿者は投稿を通じて社会をも知ることになる。
私事ではあるが、投稿がなかったなら私は何かしらの事件を起こしていただろう。投稿に社会と自分をつなぐ細い繋がりがあったために犯罪者になることは回避された。つくづくそう思う。そう考えると、多感な時期に私が聴いていたラジオのパーソナリティであった、大槻ケンジ氏、とんねるず、伊集院光氏、辻仁成氏は抜かして、古田新氏等には自分のネタを読んでくれたことを感謝している。
投稿していた身から数えて20年以上投稿に携わっているわけだが、投稿者事情は様変わりしている。ネットも加わり、発表の場は格段と増えている。そのため投稿しやすくなっていることは確かだ。第三者による選別を経ることなく投稿作品を発表することもできる。そのような状況が良いとか悪いとかはどうでもいい。おもしろければそれで良い。どんな形態の投稿であろうと、投稿者は不必要なまでのストイックさを少なからず持つ。そのストイックさが失われることがなければ、今後とも投稿文化は続くはずだ。

 それより、オリジナルのラジオ番組を録音したテープまででてきた。これはさっさと粉砕して破棄しなければならない。

1 件のコメント:

  1. みんみん須藤2012年8月15日 22:30

    改めて面白すぎます。自分も全くその通りでした。

    さらに自分がラジオで読まれた部分だけ編集して、録音しなおしたテープが何本かあったりもしますよね。

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