2015年6月26日金曜日

2014年4月2日水曜日

一見濃密に見えるハガキとの数ヶ月・その1

1990年代初頭、夏 東京はどこも暑かった。直射日光から逃げて建物の陰に入っても、エアコンの室外機からの生ぬるい風を浴びることになった。 特に新宿東口からアルタの横を抜けて歌舞伎町へと続く道がやたら暑かった。 気温の高さ、湿度の高さ、照り返し。それらをコンクリートが囲んで閉じ込め、車の音と人々の声と電車の音が鳴り響き、都会の夏を作り上げていた。 熱せられたアスファルトの上を綺麗な服で歩く人もいれば、じっと動かずに座っている人もいた。どちらも僕が生まれ育った田舎にはいないタイプの人だった。 その日は歌舞伎町で映画を見た。 最近は時間を持て余していて、暇を潰すために映画を観た。毎日何もせずにだらだらしているわけではなく映画という文化に触れているんだと、誰も見ていないのに周囲を意識していた。 「最近何しているの?」 「最近? もっぱら映画だね」 こう受け答えするのが理想だったが、知り合いのいないこの東京ではそのような会話があるはずなかった。 だからいつも将来インタビューを受けることを考えた。 「若い頃は何をしていたんですか?」 「う~んそうですね、とにかく映画ばかり観てましたね」 こうやって堂々と言える時が来るかもしれないから、今は誰にも言えなくても良いんだと自分を納得させた。 映画ばかり観ていると言えばかなりの映画通に思われるだろう。これはまったく嫌なことではない。むしろカッコ良い気がする。 しかし実際のところここ数年で観た映画でナンバーワンは『チャイルドプレイ』だ。チャッキーという人形が人間を襲いまくるホラー映画である。「ナンバーワンがそれなの? もしかしてキミ、映画そんなに詳しくないでしょ?」と疑われた場合、「あえて、ですよ」と言う準備はできていた。 「ああ、あえてなんですね」 「そうですよ」 これで映画通のイメージは保たれる。ちなみに邦画なら『ビーバップハイスクール』シリーズが好きだ。 映画が終わり、パンフレットは節約して買わずに映画館を出た。午後3時を回っていたにも関わらずまだまだ暑かった。ここが歌舞伎町だと改めて実感させてくれるテレクラのアナウンスを聞きながら新宿駅東口へと向かう。夜の店が開店の準備をし始めていた。 靖国通りの横断歩道を渡る頃にはもう汗まみれになっていた。汗を拭いながら進み、アルタの横にある果物店に並んでいるカットフルーツを横目に歩き、南国フルーツの香りの中をすり抜けて信号待ちをした。後ろにアルタがあって、「『いいとも』ってこんなところでやっているんだ。テレビ番組はテレビ局でやっているとは限らないんだな」などと考えながら横断歩道を渡り、階段を下りて新宿駅へと入った。 最も端にあるホームから黄色い電車に乗って、すぐに鞄からカセットプレーヤーを取り出した。高校生の時に地元のホームセンターで買った、SONYでもAIWAでもない、その他有名メーカーでもない、どこのメーカーだかわからない代物だ。 イヤホンをして、再生ボタンを押した。ガチャッという大げさな音が鳴った。数秒もたたないうちにすぐにイヤホンを外して、音漏れをチェックした。イヤホンを離して音が聴こえてこないことを確認し、再びイヤホンをした。 そこまで注意深くなりながら聴きたかったのはラジオの深夜放送だった。 カセットプレーヤーの中で120分テープが回り続ける。深夜放送らしいテンションでパーソナリティがコーナーのハガキを読み始める。 「続いてのハガキは、杉並区の……」 それは僕のハガキだった。パーソナリティが僕の名前を言って、ネタを読んで、笑っている声が聞こえた。 僕はまたイヤホンを外し、音漏れをチェックした。自分のハガキが読まれるところを自分で聞いているのがばれてしまったら恥ずかしいからだ。他の乗客はまったくの他人であり、たとえ音漏れしていたとしてもそのハガキが僕のものであることなどわかるはずないのだが。 でも、頭のどこかで誰かに聞いて欲しいとも思っていた。「あのハガキってあなたのだったんですか!」と驚いて貰いたい。 しかし自分は常連ではない。たまたま読まれただけだ。だからそんなことを言われる資格などないんだと謙遜になったりもした。 そのようなよくわからない感情のまま再びイヤホンをし、巻き戻しボタンを押した。テープが音をたてて逆回転した。再生ボタンを押すと通常の速さでまたテープは回転し始めた。 「続いてのハガキは杉並区の……」 僕はまた自分が採用されている箇所を聞いた。 これが目的地に着くまで計5回続いた。 (つづく)

2014年2月9日日曜日

ribbonについて

90年代はアイドル冬の時代と言われた。80年代からずっと私が抱いていた「アイドル」像は消滅してしまった。それは97年にモーニング娘が登場するまで続いた。
それでも高橋由美子や東京パフォーマンスドール、Melodyなどは意地を見せていた。ribbonもまたそうだった。

89年、私は東京に来た。上京してきたは良いが特にすることもなく、ワンルームの部屋でじっとしていた。そんな私を外へと連れ出してくれたのがアイドルのイベントであった。
池袋サンシャインの噴水広場、よみうりランド、東急・三越、新宿NSビル等によく行ったものだ。「毎週アイドルイベントがあるなんて東京って凄い」と感動しながら、ぴあの小さなマップを持ってイベント会場へと移動することによって東京の地理を覚えていった。
もしもアイドルイベントがなかったならば、私は都会に馴染めずかつ部屋からも出ず、確実に何か罪を犯していただろう。ある意味、アイドルに救われたようなものだ。

特にribbonである。最近は永作博美がいたグループだと説明すると「ああ!」と理解されやすい。
当時放送していた番組『パラダイスGoGo!!』の乙女塾のメンバーによって結成されたribbonは89年の12月にデビューした。時代はすぐに90年代へと突入した。ribbon は80年代と90年代を結ぶ懸け橋となった。そして90年代の初頭を駆け抜けたグループだった。

90年代になっても私の生活は変化はなく、相変わらず様々なイベントに行った。その数だけ様々な思い出がある。中でも最も印象に残っているのは90年の夏に日比谷野音で行われたribbonのイベントだ。
とにかくもの凄い暑さだったことを覚えている。「こんなに暑いなんてやっぱり東京って凄い」と思ったものである。炎天下の野音で疲労し切ったのだが、握手があって、サイン色紙も貰って、全てが吹き飛んだことも覚えている。

あの時、開演までこれでもかというほど『あのコによろしく』が流されていた記憶もある。
サードシングルであった『あのコによろしく』の歌詞には「強がり」があって、「諦め」があって、それらが融合した「切なさ」があった。それなのに「受容」もあった。私がribbonに抱いていた特有の母性が最も感じられる曲だった。曲と曲の合間に聞こえる日比谷公園の蝉の声も込みで歌詞を噛み締めた。

あれから20年以上経った。もう東京の暑さで驚くことはなくなった。さすがに当時とは生活は変わった。
それでも、何かあるたびに彼女達のCDを聴いている。

ribbonの賞味期限は、ない。

2012年8月17日金曜日

スマイレージについて

2月くらいに書いた原稿。
たしか『チョトマテクダサイ!』が出たばかりの頃。



 2010年。駅に貼られた大きなポスターを目にした時、完成形を見せられた気がした。そこには選抜された少女4人が堂々と立っていた。美しいとしか言えない、高貴な花が四輪あった。スマイレージがメジャーデビューした。
 和田は全く新しいタイプのリーダー像を見せてくれた。福田は最高に魅力的な声を持っていた。前田はすでに誰も真似できない位置にいた。小川は恐ろしいほどの歌唱力を持っていた。天才と言い切って構わない4人が集まったのがスマイレージだった。
 中でも小川は多くの天才がそうであるようにムラがあった。しかしパフォーマンスに影響することはなく、いつも高い歌唱力を保った。小川のムラは良い方向に働き、完成形と思われたグループののびしろとなり、魅力となった。スマイレージはさらに成長していった。
 2011年、突如新メンバーオーディション行われ、5名のサブメンバーが加入した。それから数日後、小川の卒業が発表された。蝉がまだ鳴いている季節だった。
この件は私にとって何よりも衝撃で、自分も今の仕事を辞めようと思ったほどだ。ただこの後追い行為にまったく意味が無いと指摘され、またいつの日か小川が「作家になりたい」と願った時に相談にのれるようにと、そのためだけに留まることにした。可能性などないことは理解していたがそう考えるしかなかった。
 スマイレージはバランスを失った。サブメンバーから病気で1名が離脱。残った4人が正式にメンバーになった。7名で必死にバランスをとろうとする中、今度は前田の卒業が発表された。絶対的なエースを失うことになった。
 ちなみに前田は高いギャグセンスを持っていた。ただ、引き芸であったことと、対応できる人がいなかったために、そのセンスは一般的に認知されなかった。つまり前田の卒業は同時に笑いの部分も失ったことになる。
 それでもスマイレージは倒れることなく立ち続けた。新メンバーが持っていた不安要素はすぐに可能性に変わった。
 跳ねまくる田村は文字通り飛躍し、竹内はこちらが反省してしまうほど純真で、中西はすべてを武器に変えた。勝田は既存のカテゴリに分けてはいけない存在で、新しい立ち位置のアイドルになる逸材だろう。今度は「可能性」がグループのバランスを取り始めた。
 もちろん和田と福田の頑張りがあってのこと。激動の月日が二人の天賦の才を研ぎ澄ました。二人とも成長することを辞めていなかった。
 2012年。あの日見たポスターとは違うスマイレージがそこにいる。風に翻弄され、舞った種子は一箇所に集まり、新しい蕾を持ち始めた。誰の影響も受けずに、誰からも利用されずに、もうすぐ蕾が開くことだろう。
 それは数分後かもしれない。
 我々はそれを見逃すわけにはいかない。

2012年8月15日水曜日

投稿について

数年前、テレビブロス誌に掲載された原稿が出てきました。
懐かしいので載せます。




部屋にあるカセットテープのラベルを見ていると、ラジオで自分のネタが読まれたところだけを編集して集めたものがあった。一番古いものは『ラジオはアメリカン』、通称ラジアメと呼ばれていた番組だった。確か小学生の頃だったと記憶している。それが最初の投稿だった。

投稿を続けるにはある種の犠牲が伴うものだ。
 投稿者は必ず締め切り日を設定する。ハガキやメールでネタを送る締め切り日だ。信じられないかもしれないが、この締め切りは自主的な締め切りである。
雑誌の場合は、送ったハガキが掲載されるまでの期間から入稿のサイクルを予想して締め切り日を割り出す。ラジオ番組の場合は、「火曜日に到着しただろうネタが読まれ、水曜に到着しただろうネタが読まれなかったこと」や「水曜に到着しただろうネタが次週の放送で採用された」等の経験から火曜がリミットだと分析、余裕を持たせて月曜を締め切り日とする。
 何度も言うが、これはオリジナルの締め切り日である。投稿者が勝手に設定した締め切り日だ。しかもだ。驚かないで欲しいのだが、それはなんと「必要のない締め切り」なのである。投稿者によってその締め切り日が守られようが破られようが、雑誌は発売されるし、ラジオ番組は何事もなく放送されるのだから。
 それでも投稿者はこのオリジナルの締め切り日を破ることなく、それどころか締め切りを中心とした生活を送ることとなる。例えば「火曜の放送を聴いた後、木曜までに思いついたネタをメモしてストックし、金曜にそれらをコーナーと照らし合わせて分類、不足分があれば再度ネタを考える。土曜にはネタをコーナーのフォーマットに沿った形へと作り変える。ネタの個数を数え、ノルマに到達していないコーナーはネタを増やす。そして日曜に清書、月曜日にハガキを投函、メールの場合は送信する」と投稿ありきの一週間となる。投稿する番組が増えれば、さらに投稿関連の作業は増え、いつしか投稿一色の生活となる。
この暮らしを続けるには、学校であったり友達づきあいであったり家の手伝いであったりと、何かを犠牲にしなければ成り立たなくなるのだ。
ちなみに先程の土曜日のところに出てきた「ノルマ」というのも誰かに強制されたものではない。何度も言うが、投稿者自身による自主的なものである。
 私は締め切りギリギリになると速達で出していた。自分の中で間に合わないことは許されないことだった。別の友人はニッポン放送の番組なら有楽町にあるポストに投函する、というように配達時に経由される箇所を減らしていた。郵便事故の確率を減らす役割もあると言っていた。せっかく出したハガキが郵便事故で到着しないのは辛い。そのために彼は電車に2時間以上揺られてポストまで移動していた。
こんなこともあった。ハガキを出す側から送られてきたハガキを選ぶ側になった私の入り待ちをしていた青年が、ネタが書かれたハガキを手渡してきたことがあった。彼は「出すのが間に合わなくて届けにきました」と言った。「遅くなってすみません!」と謝罪もした。
 お気づきかもしれないが、本来謝罪すべきことではない。彼は何も悪いことをしていないのだし、ハガキが遅れたところで誰も困らない。それでも彼は謝罪した。この謝罪からもオリジナル締め切りの存在を感じるだろうし、投稿者の何かを犠牲にしている生き様がわかるのではないか。
なぜそこまでするのかと疑問を持つ人もいるだろうが、J-POPの歌詞的なありふれた表現で説明したならば「そこにしか居場所がないから」といえよう。「ネタが作れる」という特殊で一般的に認められ辛い能力を発揮できるのは投稿という場でしかないのだ。採用されることによって認められた喜びを知るのだ。逆にその状態を維持するには投稿し続けるしかない。
こうしてなんとか締め切りを守ってもその回の放送が録音であったり、たまたまスタジオの外を通りかかったゲストが乱入してネタコーナーが潰れたりする場合がある。聴取率週間で通常コーナーがすべて潰れることもある。雑誌の場合、合併号や休刊もある。ここで投稿者は一生懸命やっても報われないことがあることを知る。投稿者は投稿を通じて社会をも知ることになる。
私事ではあるが、投稿がなかったなら私は何かしらの事件を起こしていただろう。投稿に社会と自分をつなぐ細い繋がりがあったために犯罪者になることは回避された。つくづくそう思う。そう考えると、多感な時期に私が聴いていたラジオのパーソナリティであった、大槻ケンジ氏、とんねるず、伊集院光氏、辻仁成氏は抜かして、古田新氏等には自分のネタを読んでくれたことを感謝している。
投稿していた身から数えて20年以上投稿に携わっているわけだが、投稿者事情は様変わりしている。ネットも加わり、発表の場は格段と増えている。そのため投稿しやすくなっていることは確かだ。第三者による選別を経ることなく投稿作品を発表することもできる。そのような状況が良いとか悪いとかはどうでもいい。おもしろければそれで良い。どんな形態の投稿であろうと、投稿者は不必要なまでのストイックさを少なからず持つ。そのストイックさが失われることがなければ、今後とも投稿文化は続くはずだ。

 それより、オリジナルのラジオ番組を録音したテープまででてきた。これはさっさと粉砕して破棄しなければならない。